「真田幸村」と言えば、まず「あの赤い甲冑の戦国武将」と言うイメージが強いと思います。
平成28年にNHK大河ドラマで真田幸村を題材にした「真田丸」が放送されます。
真田幸村(信繁)の画像
(http://www.avis.ne.jp/~ammonite/sanadake.htmより引用)
その他にも小説・ゲーム・アニメ・グッツなど、全国にもファンの多い真田幸村。今回はその魅力を紹介していきます。
目次
真田幸村とは
真田幸村、本名真田信繁について見ていきましょう。
真田幸村:出身地
永禄10年(1567年)(一説には永禄13年(1570年))、真田昌幸(当時は武藤喜兵衛)の次男として生まれたとされる。母は正室の山手殿。
真田氏は信濃国小県郡の国衆で、信繁の祖父にあたる幸綱(幸隆)の頃に甲斐国の武田晴信(信玄)に帰属し、伯父の信綱は先方衆として信濃侵攻や越後国の上杉氏との抗争、西上野侵攻などにおいて活躍している。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81より引用)
信濃国小県郡は現在でいうと長野県の上田市の辺り。また後に信濃松代藩の初代藩主になる真田信之(信幸)という兄がいます。
また父親の真田昌幸も智略に富む某将として有名であり、二度も徳川の大軍を打ち破った実績があります。(第一次、第二次上田合戦)
その昌幸にはなんと11人の子供がおり、その中で幸村は次男でした。
真田幸村:性格
「ものごと柔和忍辱、物静かで、言葉少なく、怒り腹立つことがなかった。」とは幸村の兄・信幸の言葉である。
日常は穏やかでありながら、いざという時は武勇を発揮する。その性格が多くの人から信頼を集め、大坂の陣では、まとまりの無い筈の浪人衆を見事にまとめたのであろう。幸村にはカリスマ的な要素があったのである。(http://www2u.biglobe.ne.jp/~sanada/sanada/sanada/zou.htmlより引用)
現代でもこの様な「普段は温厚な性格・しかしやる時はやるという」人柄は魅力がありますよね。
そのカリスマ的要素を発揮したと同時に現在まで語り継がれる「伝説」になった戦と言うのが「大阪冬の陣」でしょう。
真田幸村と大坂冬の陣とは
真田幸村の代表的な合戦と言うのが先に述べた大阪冬の陣(慶長19年(1614年)です。
有名な「真田の赤備え(赤で統一された鎧)」で大阪に入城した幸村は豊臣軍の一員として大坂冬の陣を戦いました。大坂城三の丸南側、玉造口外に「真田丸」と呼ばれる土作りの出城を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し、先鋒隊に大打撃を与えました。
冬の陣のあと、徳川家康は十万石を与える代わりに寝返るよう幸村に伝えましたが、幸村はこれを拒否。その後、信濃一国を与えるとまで説得しましたがこれもまた拒否しました。(http://shinshu-ueda.info/feature/feature_yukimura-sanadaより引用)
当時幸村は、豊臣川におり徳川方20万、豊臣方10万と不利な状況でした。
更に真田家の兄の信之や叔父、多くの真田一族が敵対している徳川方についているにも関わらず、「真田丸」と呼ばれる鉄砲隊を用い先鋒隊に大打撃を与えていました。しかし、真田一族が徳川にいる為、豊臣方にも「幸村は徳川と内通しているのでは」という噂まであったようです。
しかし、そんな中事実上真田家と敵対してまでも、家康からの寝返りの誘いを拒否。
その信念の固さが幸村と言う武士の最大の魅力ではないでしょうか?
真田幸村名言
そんな幸村が今でも語り継がれる名言を残しています。
幸村の人柄を思いを浮かべながら見ていくと心に沁みるのではないでしょうか?
- 恩義を忘れ、私欲を貪り、人と呼べるか
- 十万石では不忠者にならぬが一国では不忠者になるとお思いか
- この幸村、ただ、命を長らえているだけの処を召し出され、武士としての面目を立てて頂いた身、このご恩、土地や金子などに、到底、変えられない。
- 日本の半分をもらっても寝返るつもりはない。
まとめ
いかがでしたか?
真田幸村が今も人気な理由がなんとなくわかってきました。
まさに「 日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」です。幸村の様に、恩義を忘れることなく信念をもって生きていきたいものです!